酔いどれ! 映画祭追想録
モスクワ映画祭やタシケント映画祭の日本代表団の世話役として活躍した筆者が綴る追想録!
映画祭の達人
以前、本ブログで紹介した映画祭の達人丹羽高史さん。1986年タシケント映画祭を皮切りに、以来21年間毎年諸外国で開催される国際映画祭に招かれ、合計200回以上の映画祭に参加し、先日、本年の「日本映画ペンクラブ功労賞」を受賞されました。おめでとうございます。


ソ連アニメーション映画祭
30年以上前、ソビエトの短編アニメを集めてとあるホールで上映会を催した。当時、会社にはソ連製の35mmの映写機があり、手塚治虫先生をはじめ、数人の先生方に観て頂き上映作品の選定を行った。第一回上映作品“チモシカのクリスマスツリー”“ベンチ”“くるみ割り人形”“ある犯罪の話”“手袋(ミトン)”“花束”“私は小鳥が生まれるのを待っている”“島”。第二回上映作品“チェブラーシカ”“雪娘”“ペンギン”“フィルム・フィルム”“ウイニーの冒険”“コサックのフットボール”“ケルジェネッツの戦い”
その後、色々なホールにて上映会を行ったが、映画館でのアニメーション上映はその10年後実現した。
タシケント国際映画祭
カンヌ映画祭に「影武者」が出品された年、タシケント映画祭に仲代達矢氏が参加されました。タシケント空港に出迎えたのですが、トランクが出てきません。モスクワ乗換え時に積み残したのではと、関係者が必死に探しましたが出てきません。不自由されたのに、仲代さんはひと言も文句を言われませんでした。(トランクが着かなかったり、少し遅れた事は何度もありましたが、皆大騒ぎで文句を言う人ばかりなのに…)
一年後トランクわ戻ってきた(ルフトハンザがパリで間違えていた)そうです。
モスクワ国際児童映画祭
モスクワ国際児童映画祭でのグランプリは「おばあちゃんの家」だったが、その映画が上映された時、何の映画か忘れてしまったが、日本映画の予告編がついていた。韓国で上映されていた劇場プリントをそのままもってきたのであろう…
そういえば、弊社配給の「こねこ」も待ちに待った最初にとったプりントの缶にオーストリアの児童映画祭のラベルが貼ってあり、缶を開けてみると、プリントには英語字幕があった。ニュープリントではなく、ユーズドプリントが送られてきたのだ。即送り返したが、思えばフィルム・トラブルは色々あったなぁ…
モスクワ国際児童映画祭のつづき
昨日のブログで、モスクワ国際児童映画祭の審査員として参加した扇千恵先生とかきましたが、正確には審査委員長です。大変失礼致しました。ともあれ、ウイスキーのお湯割で悪寒をのりきった私は、コロソフさんから差し入れてもらったウォッカを、部屋の窓の外に積もった雪で冷やし、キンキンに冷えたウォッカを毎晩寝酒にするのでありました。映画祭閉幕前日、扇審査委員長の部屋に、昨年亡くなられたネーヤ・ゾールカヤさんが訪ねてこられました。扇さんが市場で買ってきたサラミなどを肴に、ネーヤさんがもってきたウォッカで再会を乾杯。思えば残念なことに、私にとっては、ネーヤさんとの最後の夜となってしまいました。合掌。
モスクワ国際児童映画祭
寒いこの時期になると、2002年暮から2003年1月6日、映画祭の審査員として参加した扇千恵先生と一緒に行ったモスクワ国際児童映画祭のことを思い出す。大みそかに零下のモスクワの街を歩いたせいか、風邪をひきそうになった。そこで宿泊の北京ホテルのバーで、ウイスキーのお湯割りを注文した。“ウイスキー15gにお湯を入れて”と。ところが、グラスを持つ事ができないほど熱い。何とか飲み干し、2杯目は“もっと温くして”と頼んだのだが、またまた熱い。もっとも、今度は氷を別途そえてきてくれました。

あいち国際女性映画祭’98
当初、ボブロヴァ監督を送りとどけるだけの予定でしたが、パーティーに出席、ウィル愛知の宿泊施設に泊まることになってしまいました。といっても女性のための施設ですから、門限は23時、”でらうまビール”を自販機で買い込み、3人雑魚寝とあいなりました。
映画祭期間中に9月6日に亡くなった黒澤明監督の葬儀が横浜であり、ボブロヴァさんもスケジュールの合間をぬって出席しました。

あいち国際女性映画祭
1998年のこと。あいち国際女性映画祭事務局から「遥か遠くで」の監督リディア・ボブロヴァさんの招聘を頼まれ、また、成田から会場まで連れてきてほしいといわれた。成田にはH君と西下外語教室の西下氏に出迎えをたのみ、私は東京駅で待ち合わせ名古屋へ向かった。
名古屋に着き、H君と監督は事務局が用意したタクシーに、私と西下氏も別の車で会場のウィ愛知に、が、着いた場所はとても映画祭の記者会見場とは思えない。指定の部屋にも誰もいない。ホールの受付に聞くと、ここは結婚式場との事。どうしてここに連れてこられたか…。
記者会見には大はばに遅れてしまいました。


惑星ソラリス
「惑星ソラリス」初公開時のパンフレットより(クリックすると、ロシア映画社パンフレット図書館のページへ!) 未来都市のイメージを求めて日本に撮影に来たタルコフスキーが撮ったのは東京の首都高速だけではなかった。日通航空のヘリコプターをチャーターして,大阪千里の万博跡を空撮したのです。

 惑星ソラリスを配給できたこともさることながら、この作品の製作の一端に関われた事を誇りに思うのであります。




惑星ソラリス
読売新聞から取材をうけていた惑星ソラリスの記事が12月3日に掲載された。その記事をみて、36年前にちょうどバイトに来てくれていて、いまや高名なF弁護士が忙しい中かけつけてくれた。
酔いどれ日記といってはいるが、これは酔いどれていたころのことであり、今現在は一滴も飲めない体になってしまった。F氏も酒はドクター・ストップとのこと。月日のたつのは早いものですな…